ARDILA
Novel
旧↑新↓
Short story
誘うサボンの香り
土方が玄関前の廊下に差し掛かると丁度のとき榎本が帰って来たのに出会した。
「ただいま」
「ご苦労さん」
痛そうなくらい耳が赤く、鼻先と頬も色付いている顔を綻ばせる。
外套にも帽子にも一杯の雪を乗せていて、一緒に雪まみれなお供の大塚が懸命に払っているが、室内の気温にみるみる溶けて濡れてくばかりだ
「また降りだしたか?昼間は治まってたが」
「途中からね。かなり吹雪いてきてさー」
榎本は言いながら中へ上がり込み、土方に
「何も見えなくなってー、暗いし寒いしホント滅入るよねー。ちょっと暖めて!」
大塚が小さく、あ、と声を出したと同時に榎本は、両腕を大きく広げて土方に飛び付こうとしたが、腕はスカッと空振った。榎本を避けて半歩下がった位置に居る土方が清ました顔で一つ鼻を鳴らす
「冷たいから寄るな。俺まで濡れるじゃねぇか」
「君の方が冷たいっ!暖めてやろうって気は無いの?総裁が凍えちゃうよ?」
「凍えてろよ」
「お帰りのちゅーくらい、してくれたっていーじゃん」
欧米ジョークか本気なのか口を尖らせそんな文句を垂れる榎本は、居た堪れなさそうな脇の大塚など気にしていない。
「どこ行ってたんだ?また港か?」
「うん」
「船の音でも聴いてたんだろ。ホント好きだな」
「吹雪いてて時化てたし。それどころじゃなかったけどさ」
外套と帽子を大塚に預け、中に上がり。土方と並んで廊下を進んだ
「部屋は後で行くね」
「今じゃなくてか」
榎本が歩みを止めて、土方も止まる。
因みに半歩後ろに居る大塚も止まるしか無い
「まず早く熱い風呂入ってー、着替えてー、熱燗を呑んでから」
「俺はその後かよ」
「後だよ。このままだと寒いし、濡れたまま近付いちゃダメなんでしょ?」
肩をすぼめて血色が落ち着いた顔に悪戯な笑みを浮かべる。
土方は小さく舌打ちして、髪を後ろ手に掻いた
「ったく…じゃあ先に風呂入って来い。熱燗は部屋に置いとくから」
「付き合ってくれるの?」
「少しなら」
「…珍しいね」
「今夜も冷えてるからだ。たまにはな」
土方は言いながら、榎本の濡れて肌に張り付いている前髪をかき上げ、その額に一つ口付けた。廊下に他の人の気が無い事を知っていて、土方すらも脇の大塚の存在は空気扱いである。その大塚は相変わらず吹雪く窓の外を眺めていたが。
「また、後でね」
榎本は最後にもう一度言って笑みをふり撒き小走りで奥へ向かった。外を見ていた大塚が出遅れたが、そこへ土方から声を掛けられた。
「飯は街で食って来たのか?」
「いいえ、まだです」
「そうか。君も早く着替えろよ、風邪ひく」
一言そう労って、背中を見せ掌をヒラつかせて行った土方を大塚は思わず見送っていた。
榎本の酒は陽気なモノだ。
そのうえ、前後左右不覚に陥り他人に迷惑を掛けるよりも気分が良くなる程度が一番旨いとか、酒の飲み方にも拘りがあるようで、滅多に酔わない。いや、酔わないと言うか、酔えないのだ。篦棒に強いので、榎本がそこまでになる間に周りが潰れてしまい、介抱役に回される事が多い。それと、米から生まれる日本酒を主食とし。他に食べ物を口にしない等、端から見ても臓器が悲鳴をあげそうな拘りもある。
なので土方は、誤魔化そうとする榎本では無く、大塚から聞き出した通り晩飯も用意し。火鉢にかけた鉄瓶に2つの徳利を入れておいた。
報告などのついでに支度もした島田が退室して間も無く、ノックをして榎本が部屋に顔を出した。直ぐにテーブルに揃う食事を見て目を丸くさせる
「君、もしかして晩飯まだだったの?」
「いや、これはアンタの。酒は飯の後だ」
晩飯の話しを玄関でしなかったから大塚が土方に漏らした事は直ぐに分かった。大鳥も荒井も昔から誰もが口を酸っぱくして注意する事だが、榎本は聞き入れたためしがない。釈然としない顔を一瞬したが、大人しくテーブル前のソファーに土方と隣り合わて座る
「誰も取ったりしねぇから。呑みたきゃ早く食え」
「あーあ、沢庵こんなに山盛り持ってきて」
「それは俺の分もある」
「うん」
さっそく箸を手に食べ始め。沢庵の乗った小皿は端に寄せて土方に全て渡す
「別に、サンドイッチとか軽くでいいのに」
「あの軟弱そうな食い物か。味噌汁でも飲まねぇと暖まらねぇだろうが」
「軟弱って…。酒を呑めば暖まるし。米も同時に摂取出来るんだよ?一石二鳥だよ?」
「体に言わせりゃ二鳥でもなんでもねぇよ。胃でも鍛えたいのか?荒行のつもりか?」
そんな事を言い合いながら、土方は指先で沢庵を口に放り込んだ。榎本も喋りながらしっかり食べているから土方は大人しく待つ。まだ微妙に乾いて無い様子の濃い小麦色した榎本の髪が気になって、手を伸ばしかけたが、それも食事の邪魔しないように思い止まり引っ込めた。せっかく大人しく言う事を聞いているのだから、余計なちょっかいを出して中断させるのは惜しい。伸ばし掛けた腕は榎本の頚後ろへ回し。ソファーの背凭れに乗せた
「サンドイッチだったら、食べながら本を読んだり。別な事も出来るんだよ。軟弱どころか画期的でしょ?」
まだ食事に対して言いたい事があるらしい。器用に箸と喋る口を使い分けている。余程、酒が欲しいのか食べ進める速度は随分と早い。側の火鉢に乗せられた鉄瓶は断続的に湯気を昇らせている
「分かった。それが食いたかったのか。今から作らせてやるよ」
「いや、もうコレで充分。それより早く熱燗っ!」
揶揄うように言うと、榎本は土方が予測した通りに頬一杯に早々とご飯を掻き込んだ。まるでネズミのように膨らむ頬袋が面白く、土方は喉の奥で笑う。膳の半分以上が少なくなったところで土方は笑ながら、もごもご忙しなく口を動かす榎本の髪を掌でクシャと撫で酒を取りに立つ。
その時、髪が揺れた拍子に嗅ぎ慣れない匂いが漂った
「ん…?」
「なに?」
土方が不思議な顔をすると、喉に物を全て流した榎本も土方を見る。憮然とした榎本を余所に、土方はもう一度指先で髪を梳いた。
湿り気を帯びるその細い髪は至極軟らかい。そして匂いは揺れる度に、強くも無いが香ってくる
「匂いする?」
「あぁ…」
ソファーに片膝を乗せた体勢で、真上から梳くい上げた髪に鼻先を埋める土方。自分では気付く事も無く。おそらくこうして至近距離で無ければ他人でも分からない程度の微かな残り香。どこか擽ったくなって榎本は微笑らった。
「石鹸だよ。試作品を試してみたから」
「…あっそ」
まったく素っ気ない返事だが、榎本は気にしない。
「使う油を椿とか菜の花に変えたり。材料を加えればもっと違う匂いになるかもね」
「ふーん」
「因みに試作品は馬の精脂なんだけど。石鹸ってさ、石灰を沸騰させて出てくる灰汁を丁寧に取って……」
土方はもう聞いていない。聞いていないが、正しく機関釜に火が灯った如く榎本の口は動き出した。早く酒が呑みたいと強張ったのを途端に忘れたようで、坦々と脂肪酸だ精製水だ濾過だ云々と用語を並べ。得意気に人指し指一本立て、何かお伽噺でも謳うよう眼を綴じて楽し気に語る。だから、それはそのままにさせ、土方は指先でただ髪に触れていた
「…まだ改良の余地は沢山あるんだけどね」
「あぁ、良い匂いだ」
一通り流した後まるで脈絡の無い言葉で途切り。髪を梳いていた掌で頭を抱き込んで、そこへ顔を埋もれさせ匂いをクンと嗅ぐ。
「君、話し聞いてた…?」
「いいや。楽しそうなアンタが、可愛いと思って」
「真面目に話したのにッ…」
反発に動こうとする寸前、瞼にキスを落とした。そのまま顔を頬に寄せて、髪を掻き上げるよう撫で。もう片方の腕を背中へ回し閉じ込める。榎本は胸板を二回ほど叩くが、宥めるようで抵抗では無い。火鉢の炭が、控えめにパシッと弾けて音を鳴らした。
「熱燗は?」
「…やっぱ可愛くねぇ」
「付き合ってくれるんじゃないの?」
「後でな」
「酒が先って言ったのに」
「飲ませ無いとは言ってねぇだろ」
土方が少し体重を掛けると呆気なくソファーに横たわり。何度も髪を梳いていると、いい加減むず痒くなったのか身を捩る。声を出して笑っていたのは途中までで、榎本が漸く酒を口にしたのは、放置された火鉢の火が小さくなって徳利が人肌の温度になる頃だ
愛は災いの元
本日は、軽く感激しそうな程に気温が高く陽が射していた。しかも、朝からほぼ雪雲も無く鮮やかなスカイブルーが大空一面に広がっている。こんな事は本当に久々だ。屋敷丁サから空を見上げる市村は、何かいいことでも起こるのではないか。と、さして根拠もない予感を感じつつ、この絶好の機会に普段では出来ない事をやってみようと試みていた。
洗濯だ。
ベットのシーツを洗うぞ!
と市村は人知れず握り拳を構えた。
ここ蝦夷の真冬で洗濯物の外干しをしようものなら、一刻も経てば釘が打ててしまいそうなほど服がカッチカチに氷ってしまう訳で、衣類やシーツはいつも暖房が利いている室内干しだ。
土方の衣類はおおかた既に回収、洗濯済みで居間の窓辺にて洗濯竿に全て吊るしてある。いつもならあとは午後になったら適当に取り込めばいいだけだが、この日だけは、だいぶ雪も形を潜めてきた所為か気温も上々で、なんと言っても今日は素晴らしい洗濯日和。このチャンスを逃す手はない。コレなら少し大きくても薄いシーツなら外干し可能と判断した。やっぱり太陽の恵みを沢山頂いた後の暖かい布団で寝るのは最高に気持ちがいいだろう。それに土方が普段から必要以上に溜め込んでいそうな疲れも吹っ飛んでしまうかもしれない。
市村が中庭に洗濯竿を用意していると、室内から声を掛けられた。それは、この屋敷の家主(仮)では無くて
「おはようございます総裁」
「うん、朝から働くね」
ふぁ、と小さく欠伸をして現れたのは、本日が非番の土方に合わせ泊まりに来ている榎本。9を指す時計を見て寝坊しちゃったと嘆いている。しかし、こんな事は良いのかどうか分からないが日常的になりつつあるので市村はもう決まりきって、室内の榎本へ先に顔を洗って来るよう促し。洗濯竿の準備を終え、中に戻ってコーヒーの支度を整えた頃合いに、榎本が居間へ戻って来た。テーブルの上にカップを置くと、その席に座り。一口含む榎本は、美味しいよ。と市村に言って誉めるのもお決まりだ。
「随分と天気良いね」
「はい!だから今日は気合い入れて洗濯しますよっ。今からシーツも洗っちゃおうかと」
「へぇー・・・・」
シーツ?と鸚鵡返しをした榎本が若干顔を引き攣らせた。
「今日は外で干します!」
ガチャン!と、派手な茶器の音がした。その音の発信源を見ると榎本が固まっている。カップを置いた卓上に少しコーヒーが溢れている始末だ。ヤル気に満ちて言った市村と、何気なく会話していた榎本だったが、どうした事かと市村は首を傾げ榎本を見た。
「総裁…?」
「いや、何でも無いよ…。ごめん、少し手が滑って」
市村が布巾で卓上を拭いていると榎本は何故か歯切れ悪く、あのさ、と切り出す
「シーツって、寝室の?」
「他に何処があるんですか。俺のはもう出したので、今から先生の取って来ようと思ってたんですよ」
総裁が起きたからもういいですよね。と市村が言った途端、榎本の顔からサッと血の気が失せる。
「待って、土方くんがまだ寝てるよ?」
「まぁ起こさなきゃいつまでも寝てますからね。でも、せっかくの晴れだし暖かい間にやらないと!」
「そうだけどっ、休みの日くらいはもう少しさ…」
顔色を悪くさせた榎本は、どことなくソワソワしながら寝室へ向かう市村の後を付いて来た。そして部屋の前に立った所で、突如バッと両手を伸ばし扉と市村の間に立ちはだかった。
「ダメ!」
「え?…何でですか?」
土方の小姓である市村だから勿論、洗濯は仕事だ。それをなぜ榎本に止められるのか困惑するのは当然で、自棄に必死な形相の榎本も理解が出来ない。なのに問えば榎本は瞳を伏せて、ううー…と口籠る。
「せめて昼までは休ませてあげよ」
「なに言ってんですか、早くしないと気温が下がっちゃいますから」
「じゃあ、別な日に…」
「またいつこんな天気良くなるか分からないじゃないですか。ホラ、総裁は居間でゆっくりしてて」
「でもダメだってっ!」
「先生が起きたら留守は俺に任せて、一緒に街にでも出掛けてくればいいじゃないですか」
「あぁあコラッ!」
そう言いながら飛んできた榎本の手を強引に押し避け市村は寝室の扉を開いた。
中では窓際のベットに未だ爆睡中の土方が丸くなっていて盛り上がっている。いつもは僅かな物音で飛び起きる事さえある男の筈が、部屋の扉の前でアレだけ話をしていたのに目を醒ましていないのは、本日は非番だと完全に気を緩めている所為か、ダメダメ!と喚きながら市村を引っ張る人が居るから安心仕切っているのか定かでは無いが、
仕方無いと市村が布団へ手を伸ばそうとすると、それを止めるべく榎本が全力で腕にしがみ付いてきた。
「イヤーっ!」
「ちょ、ちょっと、総裁!退けて下さいよ!」
「い、や、だっ!ダメ!!ヤメテっ!!」
榎本は下手すれば市村より腕力に自信無さそうだが、ここぞとばかりに強靭な力で立ち向かってきた。そして2人で大声を出しながら押し問答しているのに、真横の土方が一向に目を醒まさないのは寧ろ奇跡だ
それにしてもずいぶん激しく抵抗するものだ。たかがシーツを洗われる事がそんなにも嫌なのだろうか。もしかして、何かそれなりの理由でもあると言うのか。市村が一旦動きを止めると榎本も一旦動きを止めた
「何ですかまったく…」
「……?」
「…おねしょ……?」
「はぁっ!?んなワケあるか!!!」
激しく怒鳴られた。
こんなにも声を張上げようがやっぱりグーグー寝ている土方と違って榎本の寝起きは良いらしい。既に元気溌剌としている。市村はさすがにそれは無いかと思いつつ、だとしたら一体なんなのだろう。こんなにも拒む理由が一向に分からない
「だったらいいじゃないですか」
「うっ、だ、ダメ!」
頑なな態度は変わらない。こうなったら実力行使しか無いだろう。
誰に似たんだか市村の気はあまり長くはなかった。
「…あ、先生おはようございます」
「え、起きた?」
と、言われた榎本はなんの疑いもせず後ろへ振り向いた瞬間、榎本の腕を振り払い。ガシッとベットへ飛び付きシーツを掴んだ市村。
「って、あっ、ちょっ!」
間抜けた横の声を無視し、思いっきり腕を引きまるでテーブルクロス引きさながら一瞬でシーツを引き剥がすと素早く布を自分の元へ手繰り寄せた。その反動で上に乗っかる塊はゴロンと転がった。
「あああーーっ!!」
「ふー、無事確保~っ!」
呆れるくらいなんとも原始的な罠に引っかかった榎本だったが。
頭は篦棒に良いクセにそんな少し抜けた所が、動かしてもなお覚醒する気配を見せない土方も誰もが憎めないのだろうなと市村は密かに思っているのだった。
「もー、なにをそんなに嫌がってんですか?シーツが真っ白のピカピカになるんだから、こんないいことはな、い、で……しょ…?」
しかし、シーツを触った瞬間に何か違和感を覚えて言葉を止めてしまった。手が触れている部分がなんだか冷たい。
というか…少し、濡れてる??
…まさか、本当におねしょ・・・?と慌ててシーツを広げてみれば、そこにあったのは当然ながらおねしょのような地図ではなく、ちょっと白っぽくて、何かぬるぬるしているものが、点々と………?
あ、と顔をあげれば、榎本は首から上を真っ赤に沸騰させて目を大きく見開いたまま、絶句している。そして、只今の衝撃が少しは効いたのか、ん゙ーっと一つ唸った土方が寝返り。乱れた布団から体が出てしまい。見れば、その上半身は何も着ていないようだ
それを交互に市村は見詰め
昨夜、榎本は泊まりに来た訳だが、つい先ほど起きてくる前はココで寝ていたのだろう。だって一緒に部屋へ入って行ったのだから。
あぁ、つまりその…昨夜も、お盛んだったんですねぇ。と、いうこと。で、
だから、これを見られたくなくて嫌がってたんだ。俺も少し考えれば容易に分かったのに、洗濯ばかりに気を取られてた。だとしたら、これは、あの…ちょっと悪いことをしたかもしれないな。と思ったが、既に時は遅く、榎本は開いた目をじわじわと潤ませて顔をくしゃくしゃにしていく。
「う、う…っ、」
「あ、あの、その……」
「うわぁぁぁっ!ばかぁぁぁぁっ!!」
そして絶叫。あっさりと泣き出してしまった。
「あぁぁ、ご、ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったんですけど…っ!」
「うわあぁぁーん!いつも土方くんが洗うのに、む、むり、むりやり…っ!ふぅ、うっ…!!」
「あぁぁぁ……」
まさかこんな展開になるとは予想もしていなかった。確かに申し訳ない事をしたが、しかし、そんなモノを見せ付けられた市村も正直微妙な心境なのだ。一応、思春期ってモノを迎えている訳で、こんなモノを目の当たりしてしまっては色んな意味で動揺は隠せないが。別にわざわざ見たいものでもないし。
すると、
「オイ。」
という音と共に榎本の背後にある寝台で何やら冷ややかな気配が現れる。物凄く嫌な予感がしたので直視したくなかったのだが、しかし目線の先にあるものを無視することも出来ずに恐る恐る視線を合わせる。
「…あ、ぉ、おはよ…ござ、ます・・・・・」
今度こそ本当に起きた土方である。アレだけ騒いでも平然と寝てたのに、榎本が号泣した途端に覚醒するのはどうなんだ。と突っ込む余裕はこの時の市村に無い
最悪のタイミングだ、と思った。泣きじゃくる榎本。その目の前にいる自分。これではまるで自分が泣かせたかのようではないか。いや実際はそうであるから全身の血が一気に下へ降りた市村。土方もそう判断したのだろう。只でさえ寝起きは最悪なのに、その顔はもう完全に鬼としか表す事が出来ない。戦闘モードの、まるで出陣を前にした最高に気合の入っている時と同様の、殺気を迸りさせている。
とってもとっても、嫌な予感が、する。
「…っ、せんせ、コレは」
「なに泣いてンだ?アンタ、昨夜から泣きっぱなしで目が溶けちまうぞ?」
さも優しい手付きで寝台に腰掛け腕を伸ばしてそっと榎本の腰を抱き寄せた。寝起きのテンションからか、違和感が半端無い科白を平然と吐いてる土方。市村は震えが止まらなくなった。なにより目線だけが自分に向けられているのが底無しの恐怖を与えてくる。寧ろこっちが泣きそうである。
「鉄、一体これはどういう事だ…この人が何した?」
アレだけ騒いでも普通に寝てたクセにもう戦闘体勢かよ!このバカップルが!!つーか、アンタそれで良いのか!!
などと強気な発言が出来る筈も無く、寧ろ漲る土方の気迫と言うか殺気に押し潰されそうになりながらも必死に言い訳を探す。
「いや、あの、ですね…、違うんです。これはその、別に俺が泣かせたとかじゃなくて事故ですよ事故…、悪いのはシーツであって俺じゃありませんから本当なんですよ信じてください」
と言うか、シーツそのものが事故っているのはアンタ達の諸行じゃねぇかよ。という事も、当然ながら市村は口が裂けても言えないが
「やっぱりテメェが泣かせたンじゃねぇか?ぁあ?」
そう言って榎本を隅の方へ寄せて、覇気を全開にツカツカとこちらに向って競歩してくる。
あぁ、もうだめだ。
オレ、殺される。
「いや!待ってください!本当に、ちょ先生落ち着いて!お願いだから命だけはご勘弁を…ッ!」
一体何故こんなことに…。驚く程天気の良い午前中、自分はシーツを洗濯しようと思っただけなのに。土方にお日様が香るシーツで寝てもらおうと思っただけなのに。
「なのに……なんでこうなるんだあぁあぁぁあ!!」
必死の弁解も空しく、気付いた時にはもう市村の意識は軽く薄れてゆき。悲痛な断末魔は快晴の爽やかなスカイブルーに吸い込まれていった。
そして、昼も過ぎて漸く、
すっかり落ち着いてほんの少し反省した榎本が手伝いをかって出て一緒にシーツを洗い。結局、それは部屋干しになった。その室内でパカパカ煙草を吸いまくる土方に市村は、綺麗に洗ったシーツに臭いが付こうが自業自得だ。と内心だけで呟いたのだった
笑って許して
「アチッ…!」
「あん?どうした?」
「コーヒーでヤケドした」
「どこ?」
「ここ」
職務時間真っ只中の奉行所の一室に榎本と土方が居た。
それは別に何も特別な事でも不思議な事でも無い。ただ、ソファーでピッタリ隣り合わせて座る2人が、時々、今にも唇がくっ付きそうなくらいの距離で囁き合ったり。指と指を絡ませ悪戯に遊んでいたり。ちょっと…いや、かなり、イチャイチャとこの上無く五月蝿い事になっている。
人目も憚らずと言っても、榎本と土方が居るような所にそう容易く兵卒が来られる訳も無く。そのうえ、元から周囲の目など気にするような質でも無い彼ら。榎本は暇を見付けては土方の所へ押し掛け、ベッタリひっ付き。土方はそれを口先では抗議して邪険にしておきながら、呆れてもやはり強く拒む事も怒る事もせず。スキンシップを求める榎本の好き勝手にさせ。自覚が有るのか無いのか仕舞いには完全に許してしまうと、それは、端から見たら2人だけの別世界の有り様。それはもう自由奔放に2人で好きなように2人の時間を過している訳で。
もう一度言うが、今は真っ昼間の職務時間内のため、土方の取り巻き(添役)ですら出払っているし。奉行所内に残ってる奴が少ないようでいつもより静かだ。
ただ、それだけのこと。
しかしその所為で一人派手に被害を被る奴が居る
「なぁ…、遊ぶのも茶を呑むのも構わんが、この部屋から出てってくれないか?」
大鳥は格闘していた書類をグシャッと握り潰す。尋常じゃない脂汗を額に滲ませ。顔色は真っ青だ。今まで側にあるソファーを無視し続けていたが、遂に堪忍袋の緒に限界が来たらしい
「はぁ?なに言ってンだよ大鳥さん。出てけっつっても、俺はソレを待ってんだぞ?」
土方は大鳥が握る書類を人差し指で差した。もう片方の手は榎本に預けている。そして、その腕に絡らまる榎本も頷く
「ソレが終わらないと土方くん動けないんでしょ?私まで待たされてんだから、早くしてよ」
「そうだ、遊んでねぇよ。アンタが終わらねぇから、コッチは暇なんだろうが」
指を絡めたまま2人は目配せし合って、口々に大鳥に文句を言い出した。
そう、ここは大鳥と土方が共同で使う執務室。土方と大鳥は上下関係だから土方は手が空いていても大鳥の仕事を待っていて。土方と出掛けたい榎本は、土方が解放されるのを待っているだけ。大鳥次第で行動したい為、下手に動く事も出来ず部屋に大人しく居るだけだと2人は何も悪く無い事のように言うが
それで先程のような諸行だ。気が散って仕方無いし。迷惑な事この上ない。そのうえ遅いとか待ちくたびれたなど文句まで言われては理不尽も極まりない。声を掛けた今まで我慢して堪え抜いていた自分を大鳥は誉めてやりたいくらいだ
幾ら人目が無い(大鳥はとっくに眼中に入れてもらえて無い)からと言って、火鉢で寒く無い部屋でやけにベタベタ身を寄せ合って。更にコソコソ他愛無い冗談などを言い合っているらしく、ソコはもう別世界。土方も幾ら手が空いているからと言っても大概にして欲しい。
と大鳥が今度こそ怒鳴り散らしてやろうか。と思った矢先に
「もうお仕舞ェか?」
「ホラね、ちゅーまで堪えられないって言ったじゃん。これで賭けは私の勝ちだね」
「…賭け?釜さん、何の話だよ」
「暇潰しに圭介がいつ突っ込んで来るか、賭けたんだけどさ」
「いやー…大鳥さん意外と根性ねぇンだな。もうちったァイケると思ったんだけどよ」
「やっぱ関西の血が入ってるからかな?約束通り今日のお昼は外で奢りね、土方くん」
「チッ、洋食かよ」
「…………。」
いけしゃあしゃあと楽し気な気心の知れた仲だからと思い遣りに欠ける現上司と敬いも遠慮も無い部下。
間に位置する大鳥は、仲が良くて何よりだろ。喧嘩をされるよりマシだ。と必死に思い込む事にした。
己が被害者だとは思いたくない。そもそも、この位置関係に有る事で自分の命運は既に尽きている。
悔やむとしたら、本日は要の松平が不在な事と、次第によっては救世主に成っただろう添役島田や、大鳥が絶大に信頼を寄せる本田も出払っていると言う事だ
「君らはアレか、僕の神経を磨り減らしたいのか?」
「大鳥さん、アンタの図太い神経なら多少磨り減ったくらいが丁度いいンじゃねぇか?」
「なんだとォっ!!」
「いーから、早くしてって圭介。土方くんも邪魔しないの!出るのがもっと遅れちゃうし」
大鳥は深々と溜め息を吐き出して机に向かい直した。己が終われば出ていくと言っているのだから、ならばさっさと追い出してしまうしかこの不愉快さを解消する術は無い。
「邪魔している自覚が有るなら黙ってくれよ。もしくは釜さんの部屋で待っててくれ」
「いいや、俺に何か聞きてぇ事とか言いたい事あればと思ってよ。奉行にそんな手間を取らせる訳にはいかねぇだろ?」
「僕の言う事に耳を貸す気も無いクセにどの面下げて言ってンだ君はっ!?」
「そりゃ酷ぇ言い草だな。いつも聞くだけ聞いてるじゃねぇか。従うかは別なだけで」
「有り難くも何ともない気遣いだ!それに釜さんまで一緒に待ってる事も無いじゃないか」
「私はアレだよ。応援…?うん、応援してるし。改めてこう見ると頑張ってくれてるなって凄く感謝する」
「うっさいわっっ!!何が感謝だ!取って付けたようにっ!嫌味か!?ソレ嫌味だろ!!」
一人自棄になり猛然と机に向かいながらヒートアップしてゆく大鳥。
土方は、ギャアギャア喚く声を尻目に、それを面白がって笑っている隣の榎本を見て、ニヤリ、悪童の微笑を浮かべ。
「榎本さん…?」
不意に名を呼び、妙な声を出した榎本の顎を指先で捉え、近付けば榎本は目を見開く。驚く榎本に、笑みを隠さず土方は斜めの角度から唇を掠めるよう救い上げ触れた。それはほんの一瞬の出来事
「滲みた?ソコ、さっき火傷しただろ」
「いや、ビックリしたけど痛くなかった…」
「そらァよかった」
呆気にとられるばかりで、僅かに頬を上気させながら答える榎本に、土方は喉を鳴らして笑い。榎本の後ろまで伸ばして背凭れに乗せていた腕で榎本の肩を引き寄せ、頭に掌を翳す
「舐めたら治るかもよ」
「もう一回しろってか」
「してくんないの?」
榎本は土方の膝に手を置いて密着し2人の間の隙間を完全に無くして、顔を伸ばすと目を綴じた。それに、土方はハイハイと生返事を返すが、勿論それは口頭だけで共に弧を描く唇が2つ再び近付いていく。あと数ミリで重なり合う時、2人の為なら時間さえも止まりそうなその刹那、
ブッツン。と言う音を立て、とうとう大鳥がガタン!と椅子を跳ね避け立ち上がった
「馬鹿共はとっとと出て行けえぇええェ…!!」
2人が(土方が)待っていたと言う書類をスパーンっ!と投げ付け、それを上手く片掌で掴んだ土方。
「ったく、ホント伸長も気も短ぇ男だな」
「やかましぃっ!!君には言われとう無いわっ!」
「うわ、ピストルって!?土方くん退却退却ー!」
「じゃあな大鳥さん。コレは後で目を通す」
遂に武器まで持ち出し口調に地まで丸出した大鳥から
速やかに2人は部屋を転がるよう飛び出して、笑った
「ホント飽きねぇな、あの人見てると」
「うんうん」
背中を壁に預け腹を抱えて笑う土方、腕を組み真顔で頷く榎本だ。
この2人にとって大鳥ほどからかい甲斐のある相手は居ない。目付役ともなる松平や島田を対象にすると小言を聞かされるか相手にされないかで、こうも楽しい反応は期待出来ない。大鳥にとっては腹の立つ事請け負いだが、そこは愛情の裏返し。
顔を見合わせ、また大鳥の顔を思い出しては噴き出し一頻り2人で笑った後、土方は大鳥に渡された書類を眺め、それを榎本も土方の前から覗き込む
「あー…飯屋の前に千代ヶ寄ってくぞ。中島さんに会わねぇと」
「ふーん、」
榎本は拗ねたようツンと口を尖らせた。
中島と言えば、榎本の長崎では先輩であり。それから上司でもあったが、時に厳しく、時にも厳しく。榎本の立ち振舞いが西洋カブレ過ぎだとか、総裁としての自覚も威厳も足りないとか、榎本を目に掛けている男である。おそらく、年の功と好意がそうさせているのだろうが、なにぶん中島も榎本も典型的な頑固者だから衝突は免れない。それはもう口煩い父親代わりとも言うべき存在であり。榎本としては好意も信頼もあるが苦手な分類に含まれる。土方と一緒に顔を出せば、確実に説教の一つや2つは聞かされるだろう。
躊躇いが思いっきり榎本の顔に出ていて。中島の出来た本当の息子らはする筈も無いが、まるで親子喧嘩のような場を目撃した事もある土方は苦笑する
「直ぐに済む。外で待ってるか?」
「なんでっ!どーしてあのジジイの所為で私が寒い外に居なきゃならないの?!手土産に脚絆を誂えて年寄扱いでもしてやろうか」
老体には厳しい寒さだろうから。と、頬をふっくら膨らませ渾身の嫌味を吐き捨てる榎本。土方は耐え兼ねて爆笑した
「前言撤回する。一番見てて面白ェのはアンタだな」
「ソレ、喜んで良いのか分からない口説き文句だね」
「そうか?俺的には誉めたつもりだが」
土方は書類を畳み胸に仕舞うと、あ、と思い立って声を出し。榎本は首を傾げる
「さっき、口吻した時だろ大鳥さんが襲ってきたの」
「ん?それが?」
「どこまで黙ってるかを賭けたが、最終的にアソコでキレたって事は俺の勝ちじゃねぇか?」
「えー。でも、突っ込んだのはその前だったし」
「いや、見ただろあの顔。アレに比べたら非じゃねぇって」
「君、負けを認めたくないから言ってる?」
「何事も、負けンのは俺の意に反するんだよ」
「うわー、超見栄っ張り。流石は常勝将軍さま」
肩をすくめて高い声で榎本が笑う。土方はフンと一つ鼻を鳴らすと、榎本の頭を二回ポンポンと軽く叩いた
「まぁアンタが自由なのも珍しいし。昼くらい好きなトコ付き合う」
「いいの!?」
「あぁ。奢るがその代わり、酒は無しな」
榎本は喜び土方の手を掴み指を絡めた。人の気が少ない庁舎は静かで、また二人の周囲だけは雰囲気が変わる
「早く行きたきゃ中島さんの前でイイ子にしろよ」
なにそれ。とケラケラ冗談めいて反発する榎本の瞼に子供をあやす時のようなお遊びで土方が口付けた。すると、直ぐ真横の扉が、爆音と共に派手に開いて。それはそれは見事に吹っ飛んだ。
「ぃい加減にせえやぁっ!余所行ってやっとれえぇっ!!」
扉を蹴り飛ばした勢いのまま頭に血が昇った大鳥が、何処で仕入れたのか巨大なハリセンを構えて襲撃して来た。土方は過去大阪出張の際、関西人がソレを持つと立派な凶器に成ると見た、気がしたような覚えが何処かにあった。
「ヤベ!追撃かっ」
「ちょっと扉壊さないでくれない!?公共施設なんだからさー!」
総裁として注意を怠らない榎本を土方は咄嗟に小脇に抱え。スタコラ玄関へ撤退
「帰って来るまでに直しといてよ!お土産何がいい?」
後ろ向きに抱えられ連れて行かれる時、榎本が言う
「赤のシャルドネ!午後一に関税所着く筈やー!!」
「了解、留守番宜しくー」
それとツマミは…!とまだハリセンを振り回す大鳥の声は続いていたが、二人は構わず、声を出して笑い合いながら奉行所を後にしたのだった。
So much for today!
紙も積んだら山となる。とでも言うのか、俺の机には大量の書類が置かれている。自分の仕事ならまだしも大鳥のアホが原因の書類。
数日後に測量とか視察で暫く箱館を留守にするのだ。そのツケが全て俺に回ってくると言うこの“並”システム。
急なんだよバカ野郎。ああ苛立つ。焼鳥にでもして喰っちまおうか。
減らない紙の山に比例して増える煙草の吸殻の山。と、ため息、ため息。ため息ばっか。朝から部屋に籠もりっぱなしなわけで、頭がどうにかなりそうだ。俺なんでこんなことしてるんだっけ。頭割れそう。欝になりそうだ。そんな俺に留目を刺すかのように、
「ねぇ、まだ?まだ終わらないのソレ」
退屈しきった様子で真横の榎本さんは、俺の肩越しに机上の書類を覗き込んだ。
「終りそうもねぇよ」
「それ調練の予定表だよね?明日でも良くない?」
なんとも暢気な様だ。元はと言えばこの人が“行っちゃえば”なんて軽々しく言いやがった所為なんだが。そういえば、この人とは暫くゆっくり過ごせていない。俺が仕事ばっかな所為で。前2人きりになったのも確か、いや、思い出せないくらい前になる。まぁ久しぶりに今こうしているのに若干は嬉しさとかもあるが取り敢えずそれは隠していつもの調子で返す
「良くねえから今やってンだろうが。今夜中に仕上げて、明日朝一で大鳥さんに確認して。他にも、」
「ふぅーん」
榎本さんはあっそうと軽く流す。あっそうって、あっそうって言ったな。
俺はこんなに仕事に追われているのにだ。コノヤロウ
「ご飯食べに行こ。ちょっと抜け出すくらいさ、ね」
「あー……」
思わず行くと言ってしまいそうになったが、目には紙の山が映る。
朝からやっているのに山は一向に小さくならない。サボったりなんかしたら、また追い込まれるわけで。行きてぇけど。仕事が終わらない。行きてぇけど。ああああクソ、もう。
「…行けねぇ」
行かない。ではなくて、行けないのだ。断りたくないのに断らなければいけないとは、辛い。こんな書類のために気持ちを抑えるとは。大人は辛い。コイツは俺がどんな気持ちで断ったのか知りもしないだろう。
「あっそう、じゃあまた改めて」と軽く放って呆気なく席を立った。
そして部屋を出ていった。
ちょ、はぁ?居なくなるのかよ。今日ばかりは出て行けとは一言も言った覚えは無い。なのにあの野郎は出て行った。
なんで今日に限り気なんか利かせてんだよ。数え切れないほどの洋語が並ぶ頭の辞書に遠慮とか気遣いって言葉は無い奴のクセに。
いや、まさか怒ったのか?いやいや、こちとら仕事をしてんだぞ。怒るとか流石のあの人もそこまで理不尽じゃねぇと思う。たぶん。あ、腹でも減ってたんだろう。諦めて一人で飯でも食いに行ったんだろう。きっとそうだ。と思う。たぶん。ああああ。何もかもこの仕事の所為だ。大鳥の野郎の所為だ。チクショウ覚えてろよ。俺は朝からこんなにも頑張っているのに、なんでコレ減ってくれねぇわけ。燃やしたい。こんな紙の山燃やしてしまいたい。もう嫌だ。もう全部カヘルの中に突っ込んでやろうかな。ああ。細かい字を見すぎて目が痛ぇ。机に向かいすぎて首も痛ぇし。座りっぱなしで尻も痛ぇ。肩が重たい。あの人を追っ掛けたい。ため息ばっか出る。
部屋に一人になってから、また吸殻の山が増えた。消えたら点けて消えたら点けて、手に持っていない時が無いと言う程に煙草を持っているからだ。そして紙の山は少し小さくなった。しかし疲労は溜まる一方だ。もうずっと皺が寄っている眉間を抑える。
「はあ…」
「はい、おつかれ」
俺のため息に誰かが返事をした。一瞬、疲労からくる幻聴なのかと思ったくらいで。後ろを振り向くと、数十分振りの人物が立っていた。
柄にも無く。とくん、とくんと心臓が鳴る。幻聴か。幻覚か。いやまさか。
「榎本さん…?」
「ん」
きょとんとした俺に構わず、榎本さんは歩み寄ってきて、また隣に腰を降ろした
「何しに戻って来た?」
俺は素っ気なく言う。しかし嬉しいとか何とか(間違ってもソレは口に出さないが)、そんなのよりも言いたいことがまさにそれだった。榎本さんは、俺の目を見ながら目の前に、皿を突き出した。その上には少し大きめな握り飯。
「はい、ごはん」
見りゃ分かる。そして見るからに塩まみれだから食わなくても塩辛いだろう事も分かった。どう見ても賄い方が握ったようには見えないソレを、俺は呆気に取られながらも受け取った。
「…アンタが握ったのか」
すると榎本さんは頬杖をつきながら笑う。追っ掛けたいとは思っていたけれど、まさか戻って来るとは。そんでこんな事になるとは
「…すまねぇ」
「うん。早く食べちゃいな。中身は沢庵だよ」
目を猫みたいに細くして笑った。俺の心臓はまたとくん、とくんと鳴った。って、なんだこの乙女な心境。いやしかしこの不意討ち。
あぁヤベェ。ある意味この展開も大人として辛い。本来なら付け合わせである沢庵が主役を勤めるその握り飯を口に頬張ると、やはり塩辛かった。もう殆んどしょっぱいだけだ。それでも、辛さに噎せて出そうな咳も文句も一緒に全て喉へ流し込んだ。指に付いた米一粒残らず食べた。
「戻って来たって、相手は出来ねぇからな」
「いいよ、見てるから」
続きをどうぞ、と榎本さんは俺を机に向き直らせた。俺はまだ状況をうまく読み込めないまま筆を取る。隣では俺を見ている榎本さん。気になるっつーか、手を伸ばしたいわけで今度は仕事が手に付かない。でもやらなければいけない。紙の山は小さくなったとはいえ山は山なのだ。ここは取り敢えず理性だ。理性。根性だ、根性。
「…………。」
ちらり、とその人を見ると目が合って、にこりと笑顔を向けられる。
ああチクショウ。もう大鳥の野郎なんか知るか。こんなの、いつまで経っても終わりそうもねぇ。
「やっぱ気が散った」
「は?」
日付が変わってからにする。絶対それで何が何でも間に合わせてやろうじゃねぇか。そう見切りを付けて、俺は机上の洋燈を吹き消した
涙は口ほどに物を言う
眩しい朝日が顔を直撃している。腕を上げてガードして、それでも避け切れなくて布団を頭から被った。
暖かい暗闇が訪れる。ああ、ほっとする。あったかい。春が近いんだ…。こんな虚ろな気分でなけりゃ気持ちいい朝だろうに。ぐずぐずと寝返りをうっていると、ドアがドバン!と開いた。
「コラァいつまで寝とンだ釜次郎ォ!さっさと起きて軍資金稼いで来ぃや!」
「……圭介、うるさい」
ぼそっと答えたら、丸めた背中に激痛が走った。蹴られた。じぶん総裁なのに蹴られた。息が止まる。ああもう死ぬ。まあいいか、これも運命。いま私が死んだと聞いたら、あのクソッタレも少しは悲しんで困って後悔するかな。ざまーみろ。
「死んだフリしてないで出て来いっちゅーに!タロさんがもう仕度出来たってっ!!」
「……」
黙っていたらまた蹴られた。総裁なのに。総裁なのに二度も足蹴にされた。死ねない。全然死ねない。心はこんなにどんより重たいのに、心臓は元気にトクトク動いてるし、コノヤロウは布団を引っぺがすし。
身体を起こしてみたら腹がグウと鳴った。空気読んでよ私の腹。
圭介に喚かれどやされながら仕度しつつ、サンドイッチを適当に口に放り込み。タロさんと一緒に数人引き連れ馬車で奉行所を出た。今日は港で面会があるから。
ちゃんと知ってるよ。私が元気ないもんだから、圭介なりに気を遣っていつもより派手に叱咤してくるんだってことはさ。そんでタロさんは、何も知らないし気付いてませんよ、みたいにいつも通り普通に接してくれた。だから自分も仕事は真面目にした。いつも通りやれる事はやれるだけやった。
全部一段落したのは昼過ぎ。タロさんに庁舎は任せて、自分は街に残った。浜辺でぼけっと青い空と海とゆったり流れる白い雲を眺めてみたり、フラッと開いてる酒屋に入って少し呑んでみたりしたけど、心は浮き立たない。美味しいはずの冷酒が美味くないなぁと感じたとき、自分はしぶしぶ認めた。
どうやら、彼とちょっとした喧嘩をしただけで、こんなにも落ち込んでしまうほど、自分は弱いらしい。
どうってことない、いつもの口喧嘩のはずだった。
彼はまるで額縁を指で撫でてネチネチ嫌味を言う姑のように細かく、嫉妬深くて、束縛が異常だった。
まず、一緒に面会に行ったら、終った後に怒られた。その時、相手に対してスキンシップが過剰だったとか言ってきたから、そんなこと無いよと笑うとむくれた。日本語じゃない相手との会話の一言一句全て何をそんなに楽し気に話してたのかと知りたがる。そればかりか、お前はもう少し危機感を持てと説教までする。別に、彼を蔑ろにしているつもりはないし、彼の目を盗んで遊んでやるなんて思ってもいない。普通の人付き合いをしてるだけで、いちいち彼に報告する必要はないと思うから言わないだけ。
束縛は自分を気にかけてくれてるなって実感するから、そりゃ悪い気はしない。しないけれど度が過ぎると、私は信用されてないの?君以外に興味ありそうに見える?って、虚しくなる。だいたい大人どうしじゃん。彼だって、これまでにも仕事や付き合いで綺麗な女の子がいる店にも行けば、誰も知らないところで人には言えない仕事をしてたんじゃないの?そーいうの、分かってよ。と、いくら言っても、彼は分かってくれない。それとこれとは別だと言う。なにそれ。まるっきりごねる子供じゃん。そして、流石の私もそれを、ハイハイまったく嫉妬深いんだからー、と喜んだり、あしらったりし切れない時もあるわけで。うるさいなー誰とどこで何しようが私の勝手じゃん、と言ったら更に逆上され。
そうかならもう知らねぇ勝手にしろじゃあな、と冷めた目をして眉間にシワ寄せて、まるで庁舎中に聞かせるようにバーンっ!と扉を閉めて部屋を出て、廊下にドカドカ足音を鳴らして行った。それでその時に庁舎の中に居た誰もがやっぱりその音を聞いてたようで。直後に青ざめた圭介が部屋に飛び込んで来て、またか!と怒鳴った。
それが一週間くらい前の夜のこと。
直ぐさま後悔して会いにくるなりするに決まってる。わーって威勢よく
喧嘩して、その勢いで元に戻るんだから。と言う自分の高をくくった予想は今のところ外れて、顔も合わせていない。まぁ、会議も無いし。それぞれ外出が重なってるのも手伝っているけど。
あの強情っ張りめ。ホントに頑固なんだから。さては、いっつも最終的には私にやり込められてるから、変に意地になってんのかな、あのヘタレめ。なんて余裕こいてられたのは最初の三日までだった。四日目は部屋の中をうろうろして、五日目は一日中扉を睨んでた。六日目は圭介に八つ当たりして、七日目はとうとう、ちょっと散歩中って顔で庁舎内を彷徨いてみた。そして、今日。アレもう一週間?あーあ、ヘタレのくせになに頑張っちゃってるのかな。ベットの中じゃ、こっちが大人になって色々譲ってあげてるだけで、彼ヘタレだからね。ホントに。クール気取ってるけども、ちょっと冷たくしたら耳の垂れた犬みたいになっちゃうんだからね。
「…って、何してんだろ」
気づけばバーの一階にあるテラスでベンチに座って、足元の野良猫に向かって話かけていた。愚痴が終わったと判断したのか、細身で茶色い猫は、まるで小馬鹿にしたように欠伸をし。にゃおんと一声鳴いて。柵の隙間をくぐり抜け、通りをスタスタ去っていった。
なんとはなしに猫の行方を見ていたら、猫とすれ違うようにして、
雪で濡れて黒く光る革靴と、その上に伸びる黒い脚が、二本。
「……あ、」
「……」
テラスの柵の奥に立つ黒い影は、こっちに気づいて足を止めた。
かっちりした軍服の上に袖を通さず肩に羽織っただけのコート。周りにいっぱい取り巻きを引き連れ。その真ん中で堂々としてる彼の口元で、見慣れた咥え煙草がもくもくと煙っていた。ひじ、と呼ぼうとした。
だけど煙の向こうで、視線はすっと逸らされた。
…え?
ぉ、お前ぇ…また真っ昼間から呑み屋かよまったく。護衛はどうした。刀も振れねぇ奴が、ずいぶんな度胸じゃねぇかコラ。そんな、嫌味とも気遣いともつかない事を時々しどろもどろになりながら言って、目の奥では全力で心配だって訴えてくるんじゃないの?いつもそうじゃん。
下手くそに喧嘩売ってきて、頬とか耳たぶとか不器用に少しだけ赤くするの知ってるし。後で部屋に行く、みたいなアイコンタクト送ってくるの気付いてるし。それなのに、バカでヘタレなクレイジー土方くんは、
ひん曲げた唇に煙草を挟んだまま不機嫌さを隠そうともせずに視界を横切って、雪遊びに熱心なワーワー騒ぐ道の子供たちを避け。そのまま振り向きもしないで歩いて行った。
それから、しばらくベンチの上で呆然としていた。雪面に伸びる影が、正面からだいぶ右にずれるくらいの時間は、呆然としてた。
「…あー、そっ、か。あーびっくりした…」
我ながら、腹の力が抜けたヘロヘロした笑い声がたくさん出た。
機械仕掛けの人形みたいに立ち上がり、へー、あっそう、へー、とかなんとか、ぶつぶつへらへら呟きながら庁舎へ帰り。大塚くんが声をかけて来たけど、全部聞き流しながら寝室に入り、布団を頭までかぶって、寝た。
「おいっ、起きろって!」
うるさいなぁ。ここ総裁室だよね。どいつもこいつも勝手に入って来やがって。規律ってモノは無いのかな。もう条令とか造った方がいいかなコレ。うんそうだ。そうしよう。例え総裁が中に居ても許可しなかった場合入室禁止とか、扉は静かに閉めるとか、廊下は静かに歩くとか、…アレ、これって常識じゃないの?まぁいいや、それで誰かさんがどんなにキレて暴れても無視してやるんだから。何かそれなら静かに読書とかも出来そうだもん。いいかもしれない。うん。
「榎本さん、…なぁ」
揺らさないでよ。ほんとは煙草の匂いとか大っ嫌いなんだからね。今まで我慢してやってたんだからね。それに下戸のクセに沢庵とかツマミばっかり食べるし、コーヒーより日本茶派だし、パンよりご飯派だし、
あ、考えてみりゃ自分たち気が合わないじゃん。清々する。よかったよかった。
「聞けよ、悪かった、実はあの時、」
ふわぁとあくびをしたら涙が出た。んーと唸りながら伸びをしたらヘタレヤローはウッと言って黙った。あ、拳が顎に入った?君の声なんかもう忘れちゃって刺客か何かと思った。ごめんごめん。
彼は顎を抑えて恨めしげにこっちを見たけど、突然、
暗い部屋の中でも分かるくらい、かっと眼を見開いた
「ぁ、アンタ、泣いてんの…か…?」
はぁ?そんなわけないじゃん。欠伸が出ただけだし。
……ん?なんか、随分ぽろぽろこぼれて来る。なんか睫毛が重たい。瞬きしたら、またコロリと涙の粒が転げ落ちた。なにこれ
いきなりぎゅうと抱き付かれ、顔が煙草臭いシャツに埋まって、ぼんやり見上げた。苦しいくらい体を締め付けてくる大きい手。煙草の匂い。ああ痛い。痛いってば、馬鹿力め。手加減してよ
「あの時アンタの顔をよく知らねぇ組下のもんまで居て、気付いたの俺だけで。巡回中だったし、下手に声掛けちゃマズイと思って、つい知らん顔した。昨日まで仕事も立て込んでたし、あーもう、ほんとに俺が悪かったから、泣くなって、頼む、」
いつものしどろもどろな言い訳を聞きながら、つい、ふやけたように笑ってしまった。
うん、やっぱりヘタレな彼が、あの状況で声をかけて来るはず無いのは、声をかけて来られないのは、分かってた。だからいつもは自分から行ってるだけの話しで、それを昨日は行かなかっただけの話しで、すると彼は本当に黙ったまま行っちゃって。分かってたのに、自分は今鼻をズッと啜って、あーあ馬鹿みたい。と思ったけど、彼の手がおろおろと顔を拭ってくれて、キスして、
もうぜんぶいいや、と思い直した。
そのあと、圭介の説教を珍しく黙って聞いてる彼を肴に飲んだ冷酒は、爽快なほど旨かった。肴の沢庵はやっぱり全て彼に食べられて、よく平気で漬物ばっかり食べれるね。って言ったら彼は、俺しょっぱい物が好きだからアンタの涙に弱いのか、なんてこの上なく恥ずかしいセリフを平然と口にしたもんだから、一発怒鳴っておいた。
そ~さいにそ~だんだ♪
今夜の分の沢庵を切らした。
こうした事態には、土方の命により市村が使いに出される。沢庵にそれはもう拘りがあって、奉行所で出されている物はどうもお気に召さないらしい土方は、この蝦夷でもいつの間にか好みの味を探しだし。今では街のとある店の物を贔屓にしている。いやなんかもう大根の漬物なら何でもよくね?(本人の前では絶対言えないが)と文句を項垂れつつ、市村はその日も例外なく買い出しに繰り出した。
二本分の沢庵の袋を片手で纏めて持ちながら、他に何か目ぼしい物はないかと街を物色する。
そんな市村が目にしたものは――
「先生って、きの〇の山とたけ〇この里、どっちが好きなんだろうな?」
お使いから帰ってきた市村の手には、買い物袋。その袋の中身は土方ご所望の品の沢庵二本と、そして某有名なお菓子が二つ。茸の形をしたビスケット菓子と、筍の形をしたクッキー菓子であった。
市村は奉行所に帰還するなり、廊下でバッタリ出くわした田村と玉置と、井戸端で歓談に花を咲かせた。この3人寄れば自然と話も弾む。下らない雑用を言いつけられた愚痴から始まり、日々の処遇への愚痴へと繋がっていく。そこである程度不満を零したところで、お菓子の存在に田村から「何だそれ」と首を傾げられ、市村は購入に至った経緯を語った。
市村はこの某お菓子がたまたま目に付き、うっかり気になってしまったのだ。値段も手頃で丁度お釣りで買えたものだから、取り敢えず両方を手に取る事にしたが、この某お菓子は割合、派閥化している。
勿論両方を支持する者も多いだろうが。茸派か、筍派か、対立軸が生じている節がある。ならば、土方もこの派閥の一員である可能性が高い。だからこそ、土方の嗜好が分からない故に、両方を買ってきたとも言える。田村は井戸の縁に座り浮く足をパタパタさせながら曇空を仰ぎ、切り出した。
「さあなぁ…菓子とか好きじゃねぇんじゃねーの?」
「いや、一応食べる事は食べるじゃん。玉が一緒の時とか。前に、鳥奉行からばーむくーへん貰ったとき」
「ああ、半分残しちゃって。食べ掛けだし、あげないって言ったのに勿体無いからって…」
「はぁ!?俺それ知らねぇんだけど!なんで2人だけ?!それいつだよ?!」
「先週。お前は春日さんと出掛けてただろ。帰ってくるのも遅かったし」
「あ、あの時か。聞いてくれよ~、あの日さ、まぁた渋沢隊と彰義隊に春日先生が首を突っ込んだってか、巻き込まれたってゆーか。春日先生までブチ切れて、大騒ぎになったんだよ」
小彰義隊(渋沢隊)と彰義隊は顔を合わせては揉めている。そりゃもうその諍いで怪我人が出るほどまでに歪み合っているのだ。特に彰義隊の寺沢新太郎など小彰義隊の渋沢成一郎を本気で殺す勢いで襲うほどその確執は深かった。いや、寺沢は実際に渋沢を抹殺せしめんとした事も、事実だ。そんなこの国でも指折りの荒くれ猛者達の私闘も怖いが、キレた春日の怖さを兄貴分である野村との対峙で目撃している少年達。もう茸か筍かなんて言う食物繊維同士の争いより遥かに物騒な田村のその発言により、阿鼻叫喚たる光景を想像したらしく市村が肩をブルッと震わせ顔色を青ざめさせる。
「ぃ、今は土方先生の話しでしょ?どーするのソレ」
その隣で玉置は慌てて話題を戻すべく、声のトーンを1つ上げて言った。田村は相変わらず浮かせた足をプラプラ遊ばせながら今度は小さく欠伸を溢す。早くも若干厭きてきたようだ。
「じゃあ、もうどっちでもよくね?」
「いやいやいや、それで俺がきのこを差し出したとしてだ。先生がたけのこ派だった場合、また理不尽な御叱りを受けるかも知んないだろ?」
「じゃあ両方出せばいいんじゃねーの?」
「いやいやいや、考えてみ?それで、先生がどちらか一徹の考えをしてた場合、俺はどっちつかずの蝙蝠野郎としてお仕置きと名目で根性叩き直されそうじゃん」
まあなァ、と一度は納得しそうになった田村であったが、そこで玉置から的確な突っ込みが飛ばされた。
「それならどっちも出さなきゃいいじゃん。沢庵以外は頼まれたわけじゃないんだし」
「!」
その通りだ。
たまたま見付けてしまい、気になったし安売りしていたからと、つい土方に購入してしまっていた市村。しかも善意で危ない橋を渡ろうとしていたのだ。なんかもう雷に打たれたような衝撃だ。目から鱗だ。そうだ。そうなのだ。なにも自ら危険を冒す必要などない。それに気付いた玉置さまさまである。
「そ」
「アレ。何してんの」
それもそうだ。
そう同意を示そうとした寸前、予想だにしなかった第三者の声が割り込み。思わずびくりと肩が竦む。この場面、勿論ながら危惧すべきは土方の登場だ。だが声質は土方の厳粛な低音とはまるで違い。彼があの鬼の副長ではないと、確認するまでもない。この声もまた、毎日のように耳朶に触れているのだ。顔を窺う前に判別はついている。
「そ、総裁…びっくりさせないでくださいよぉ」
市村が振り向きざまに職名を呼ぶと、その声の主総裁榎本は挨拶代わりに片手を掲げてみせた。突然の出現に驚きはしたものの、VIPの登場に恐縮しないのがこの少年達であり。それを気にもしないのが榎本である。
「何?そんな所で集まって何の相談?また何かの悪戯でも計画?」
「いや、しませんよ」
こうして榎本の出現により、なんやかんやで茸と筍の議論に更に拍車が掛かった。
3人は今し方来たばかりの榎本に、話の種であった議題を掻い摘んで簡潔に伝え、土方の好みに頭を捻った
「ところで、きのこ〇山とたけのこ〇里ってどっちが人気あるんだろ?」
玉置が突如として、口火を切ったこの疑問。その答えが分かれば少しは土方の嗜好にも予測が立つ。市村は新たな議題に一早く食いついた。
つい先程もう両方取り止めればいいと結論が出たばかりだと言うのにだ。一を聞いて十を知るならぬ、一を聞いて一を忘れる、だ。
「難しいなぁ。確かきのこ〇山のほうが古いんだっけ?総裁はどう思います?」
「人気が有るのは、たけのこのほうだよ」
「「「えええっ!?」」」
結果、あっさりとその疑点は解決した。思わぬ伏兵がいた気分だ。
五ヵ国語網羅する歩く翻訳機で情報通の榎本は、悠然たる態度で更にポイントとなる情報を一つ提供する。
「内容量は若干きのこの方が多いんだけどね。たけのこの方が売れ行き良いのは本社で裏が取れているから間違いないよ。ついでに、米国の通販サイトではきのこの方が人気みたい」
すっぱりと言い切る榎本に3人は両方のお菓子のパッケージを矯めつ眇めつ見比べるが、確かに茸の量が多い事実を知る。この思わぬ伏兵のおかげで暗澹としていた茸筍の道に活路が開けそうだ。そして市村は見いだした明るい未来に意気揚々と一番の要であった例の議題をつきつけた。
「あ、あの!総裁ってもしかして、土方先生がきのこ派かたけのこ派かご存知だったりしませんか!?」
その返答も、即答で。
「きのこじゃないの?」
市村はこの日初めて榎本を尊敬した。
いつも総裁は何をしてるのか難しくて分からないし。市村が見る限りの榎本と言えば土方にベタベタ引っ付いて酒を呑んでいるくらいだったから。榎本が討論に参入した事により、一気に土方攻略までたどり着いたのだ。知らず榎本を見る眼差しに憧憬の色が宿る。
そんな市村を尻目に、田村が確認として榎本に向き合った。
「それは確かな情報なんですか?」
「んー?ただ、きのこの方かな?って思って」
「って!結局は知らないんですか!?」
不確定な内容に、一転して市村の肩が落ちる。
だがしかし!
彰義隊やらなにやら日の本で指折りのトラブルメーカーを抱える長たるトラブルメーカー榎本であった。彼は、まだ青年と呼ぶにしても余る思春期の少年3人にとって今後忘れがたい、…いや、寧ろ忘れてしまいたい程の爆弾発言をしれっと投下したのである。
「だって彼、私のきのこ大好きだからさ…」
「「「……え゛…」」」
今日は君が繋がらない
もう少し。
あと5cmで触れ合う距離にある、相手の唇。
「本はもういいのか…?」
口端が吊り上がって小さく笑われた。近くで紡がれたその言葉は殆ど吐息となって零れている。
いいからこんな事をしているのをわかってて囁いてくるのが、わざとらしい。でも自分は小さく頷いて答えて、更にゆっくりと近付いて1cmずつ間隔を狭くする。あともう少し。お互い顔を見合いながらすると言うのもムードに欠けると思う。何より、恥ずかしくて自分が耐えられない。そろそろ目をつぶってもいいかな。そう思って瞼を閉じかけた時、不意に相手の動きが止まった。
少しの間。止まった相手は一向に動こうとしない。
どうしたのだろう。あと少しで触れ合えるのに……。ん?問い掛けてみるも答えはない。そして、急にふいっと顔が逸らされてしまった。驚いて見上げると、さっきまで意地悪く笑っていた顔が真剣味を帯びている。そして、その目線は目と鼻の先にいる自分ではなく、部屋の扉に向いていた。
「…来た」
ぽつりと呟かれた言葉に首を傾げた。
え?来たって?と聞く前に、コンコンと扉がノックされた。
「土方先生…」
開かれはしない扉の向こう側から沈着で低い声が届いてきた。それは彼の側近。島田か。と彼は呼び掛け。私の肩を掴んでぐいっと、引き離した。そして長椅子から降りて忙しなく上着を着て襟を整え、刀を手にして。こっちを見向きもせずに行こうとするものだから、
「…!…どうした?」
思わず、上着の裾を掴んでしまった。彼は肩越しに振り返って、不思議そうな顔で見詰めてくる。でも、無意識の行動だっただけに自分も戸惑ってしまった。これじゃまるで引き止めたみたいだから。
だって今まで一度足りとも自分はこんな事をしたこと無い。いつも、大変だねって、ご苦労様って見送るのに。あれれ、今日に限ってどうしたのか自分自身でもわからない。だから、どうしたと言われても困った。何も言わない自分に彼は、身体をまたこちらに向けて視線を合わせた。さっきと同じ距離。
「悪ィな、おあずけだ」
彼は苦笑して、ちゅ、と額にキスを落としてきた。
でも、今日はなんだかそれでは納得出来ていない自分がいて。だからと言って、引き止めた明確な理由があるわけでも無くて、それどころか引き止めてちゃいけないとも、理解している。いま彼が出て行ったら最後、もう会えなくなるような気がした?これが虫の知らせってやつ?
違う。確かに彼が死なない保証はどこにも無い。けどそれは自分も同様で、そんなの今に始まったことじゃないし。分かってる。彼も自分も、やるべきことは沢山ある。それに特に彼は、いろんな役職も含めてこの国の監督に当たる立場で。なにより彼の中での一番は、きっと自分では無い。自分だって一番優先すべき事は、優先している事はあるだろうに、そう思った瞬間胸に込み上げたのは、ドロドロと重たく濁った醜い感情。それを表現する言葉が今の自分にはわからない。
なんと言っていいのか淀んで、どんな顔をしたらいいのかもわからなくて、ただ唇をきゅっと固く結んで、掴んだ上着を黙ったまま手離した。
相手もそんな自分をどうしたらいいのかわからないようで、今度は本当にすまなさそうな顔をして、掌でふわりと頬を包んで附せた視線を上げさせられた。
ああ、ごめんね。彼がそんな顔をする必要は無いのに
「今夜、な。部屋に居ろ」
見上げれば端整な男の顔がやんわりと降ってきて、次は目蓋に口づけされる。だから、欲しいのはそこじゃないのに。なんでこんな時に限ってそこかな。そんなことすら言えずに、部屋を一歩出て、そこからは数千の兵の信仰を仰ぐ軍神となる彼の背中を、ただ自分は見送ることしか出来なかった。
行かないで、なんて台詞を素直に言えたら、どれだけ楽だろう。
まあ素直に言えるとか言えないとかじゃなくて、自分は言うべき立場じゃないのは知ってる。でも逆に言ってしまったら、彼はどんな顔をするだろう。笑うかな。呆れるかもしれないし。怒るかもしれない。それでも「仕方無いやつ」と笑ってくれるかな。
自分の欲張りな性格は今更直るようなモノじゃないだろうし、直す気なんてさらさらない。昔から欲張りたい事が多くて、気付けば自分は今ここでこうしているわけだから。でもそれが、今は何故か苦しい。普段から我が儘放題な奴で通ってるんだから、今だって言ってしまえばよかったのに。彼を欲張ってしまえばよかったのに。でもそれは、とても出来なかった。
この鬱屈した気持ちを振り払いたくて読書の続きでもと窓辺に椅子を移動した。
外は晴れていて、窓から差す陽光は丁度いい具合に本を照らしてくれる。ふと、視線を外に移すと行き交う人々の中に出て行く彼の姿を見つけた。その彼の周りには、今も、いつも沢山の人が居る。今は彼に総統される屈強で物々しい感じの取り巻きだけど、普段の時は彼もその周りも楽しそうにしている。『西洋かぶれ』だとか陰口を言われているらしい自分の身を考えると、彼のその姿を見る度に、確かに羨ましい。けど、それ以上にそんな彼に想われていることが自分は誇らしいと思う。
自分は他人と、服、持ち物、髭の形、考え方や世界の見え方が違うだけ。彼は、それを否定しないし。自分は彼の考え方や価値観、私にはわからない彼がこれまで生きてきて知ってる世界を否定しない。それで何が不満?何か不安な要素でもある?誇らしいの裏側に、妬みや蟠りが無いとは言い切れないし、彼の中の一番が自分じゃないのをわかってて、自分が彼を好きだから、彼が好きなものも大切にするものも、自分だけじゃないと嫌だ。なんて、烏滸がましいにもほどがある。そう理解していてどうして、彼を引き止めたんだろう。実際に欲張って「行かないで」って口に出して、彼を困らせて「仕方無いやつ」と笑われればよかったかな
窓の外の彼が、ふいに振り向いた。
明るい外から建物の中の顔が見えるとは思えない。わかる距離じゃないと思うのに、彼はこっちに向かって手を一度だけ振り上げた
それに自分は思わず、泣きそうになった。
醜いことを考えている自分が、堪らなくなった。
窓に背を向けて、
「あーあ、仕事しよ」
わざと軽い調子で呟いた。
犬も食わないなんとやら
犬も食わない、と言われたのは…なんだったか…?
「バーカバーカ、土方くんのばぁーか!」
「んだとゴルァ!!やンのかテメェっ」
「はん!何でもそーやって暴力で片付ければ良いと思ってんだね、鬼副長さんは」
「ハッ!ロクに刀も振れねぇ学者旗本の負け惜しみにしか聞こえねぇな」
「・・・・・・。」
「・・・・・・。」
「「ふんっ!」」
先程から鎮火する事を知らず目の前でバチバチと火花を散らしている激しい言い合い。かれこれ早30分ほど続けられてる押し問答は、自分がここに来る前からすでに始まっていたようだから、もうどれくらいの時間こうしているのだろうかと、大鳥はこっそりと溜め息を吐いた。
「だいたい君はいつだってそうなんだよ!意地っ張りめ」
「オメーに言われたくねぇな!このわからず屋の頑固者がっ!」
「どっちが!?」
「そっちが!!」
「・・・・・・。」
「・・・・・・。」
「「ふんっ!」」
テーブルを挟んだ向かい側は、もはや戦場と化している。
勝手知ったる榎本の部屋で遠慮なく自分の分のコーヒーを淹れソファに腰を下ろした大鳥は、席の選択を誤ったと今更ながらに後悔した。
今からでも移ればいいのだが、立ち上がったら最後、自分にも火の粉が飛んできそうでそれも出来ない。
触らぬなんたらに、祟りなし。
「圭介も彼になんか言ってやって!」
「うへっ!?ぼ、僕がっ!?」
そう、思っていたのに…。
榎本から突然火の粉を浴びせられ大鳥は手にしていたカップから数滴ほど黒い雫を溢した。
「いや、何の話かも分からんのに、口は出せないな」
「…なに…圭介は土方くんの味方すんの?」
「……なんでそうなる」
じとっ、とした榎本の視線が大鳥に突き刺さる。
そもそも大鳥が味方に付くなら榎本側に決まっているのだ。土方に付くはずがない。それなのに、冷たい視線はちくちくと大鳥を苛み、口にした科白を責めていた。
「この人は関係ねぇだろうが。これは、俺とアンタの問題だ」
複雑な空気の中、土方の声が更に場の空気を冷やしにかかる。
これ以上零すわけにもいかないので、大鳥はまず手にしたままだったカップをテーブルへと戻した。
榎本とは違う、明らかに敵視が混じった視線がびしばしと大鳥に送られている。刺さったところから血が吹き出したらどうしてくれようか。
「ってか、なんで大鳥さんがここにいるんだよ」
「…計測のことで少し、釜さんの話を聞きにきたんだよ。わ、悪いか」
「悪い。」
もはや聞き慣れたこの即答とギロリと向けられる彼の十八番の三白眼。けれど、大鳥とて、仕事はもちろん榎本と過ごす時間を楽しみにして、わざわざこうしてやってきているのだ。そう易々と引くわけにはいかない。寧ろ、二人が喧嘩している今は絶好のチャンスではないか。
「ほら、釜さん。こんな事をしていても時間の無駄だろ?もう彼はほっといて、僕に付き合ってくれ」
ぽんっ、と手を打ち大鳥はソファから身を乗り出すようにして榎本へと提案を告げた。瞬時に強烈さを増した刺さる鋭い視線は、この際気にしないのが得策だ。
「…ふんっ、それもそうだね!じゃあ広間で話そ!」
少し空いた間は、何だろうか。
それでも同意した榎本は大鳥を顎で動かし扉をバンッと音を立てて開くと部屋を出て行った。その足音は、強い。
「なんだ、黙ってていいのか?珍しいな」
すんなりと行かせた土方へ、当然の問いがかかる。
てっきり腕でも掴んで引き留めると思っていたのに。
「勝手にしろ…」
俯いた土方の表情は、あいにくと大鳥には窺い知れない。
おとなしいのは有難いが、やはり気味が悪いと、大鳥は肩を竦めながら榎本に続いて部屋を出た。
「……――――」
その背を目の端に捕らえた土方の口角が、吊り上がる。
大鳥が聞き逃していたこの時の言葉は間もなく痛感することになる罠が、すでに仕掛けられていることを、教えていた。
――まぁ、そのうち分かるさ…。
「…で、ここなんだが…」
「………うん…」
相槌にもならない声が視線を追うようにテーブルの上へぽつりと落ちる。先程からずっとこうだ。
片手で頬杖をついたまま榎本は上の空というよりも、自分の話より気にかかることがあるのだろうそれに囚われている。大鳥はこれみよがしに溜め息を吐いてみせた。無論、榎本は少しも気付いた様子はない。
「おーい、釜さん?僕の話、聞いてる?」
「………うん…」
いっそ榎本の形をした録音再生機能付き人形ならば、この会話にもならない会話でも大鳥は救われたかもしれない。けれど今目の前にいるこれは紛れも無く本人だ。しかも、自分の存在を忘れているオプション付きの。
「おい、これじゃ話にならないだろ」
「………うん…」
なんだろう、今なら泣けそうな気がする。思って大鳥は大きく息を吐き冷めてしまったコーヒーを一気に飲み干した。いつもは感じない苦みが口の中に広がり覚えず表情に渋さが映る。
口直しに新しく淹れなおそうかと思った矢先、吹き抜けの広間の向こうで、渡り廊下をゆっくり歩く土方が目に入った。ソコへ島田が歩み寄り何か話し掛けているようだ。
(なんだ…急用か…?)
島田と話す土方の口許が、緩く弧を描く。
何か言葉を交わした後、島田はどこかへ行ってしまい。土方は、そのまま自室へと姿を消した。そんな何てことない土方の行動をさして気にも止めなかったのは、どうやら大鳥だけのようで。
「……うそや…」
今まで、どれだけ大鳥が声をかけても上がることのなかった榎本の視線が、渡り廊下の向こう側の閉じられた扉へと注がれている。
表情から見てとれるのは、不安か、不満か。
「……釜さーん」
今なら呼び掛けぐらい届くかもしれない。そんな些細な大鳥の希望は、榎本の横顔にあっさりと打ち破られた。ここまで来ると、さすがに腹立たしい。
「おい、釜さん…かーまーさんっ!」
「っ…えっ?…あ、なに?」
「…なに?とは何だ」
まさに今気付いたといった榎本の表情に何度目かも分からなくなってきた溜め息を吐く。涙が滲みそうになるのは、なんとか堪えられそうだ。とはいえ、漸く自分を映してくれた瞳の興味を、このままこちらに引き付けておきたい。
胸に渦巻くもやもやは取り敢えず奥底に仕舞い込んで大鳥は呆れた顔を隠してにっこりと笑んで見せた。
「じゃあ、この続きを、」
「ごめ、ちょっと行ってくる!」
「始めよ…って、おい!」
三日天下ならず、三秒天下。大鳥の言葉は最後まで綴られず、榎本はそう言い残し椅子から飛び降りていった。
呆然と残された大鳥は思わずテーブルに突っ伏してしまう。
あぁ、本当に泣けそうだ。
「なんやっちゅーねん、ったく……ん?」
榎本は吹き抜けの広間から渡り廊下に出るとそれを突き進み。土方の部屋へ入って行くのは、榎本を目で追っていた大鳥には丸見えで。
珍しく開いたままになっているドアの向こうから、ぼそぼそと声が流れて届いた。
元より好奇心にはからきし弱い。大鳥は呼ばれるようにこっそりと自分も渡り廊下を回り戸口へ立ち、僅かに日が傾いている時刻に明かりの点いていない薄暗い部屋の中へと耳を澄ませた。
「…どっか…行くの…?」
「あ?…なんでだ?」
そろり、声の出所を窺えば、窓際に寄り掛かった土方から少し離れたところで、榎本がその足元に言葉を落としている。
視線はどこか床にあるせいで、中途半端な高さで止まっていた。
「今日は……っ…その…、非番で…」
言いづらそうに、榎本が口の中で言葉を濁す。その様を見て土方は小さく笑み、榎本へと歩みを進めた。
視線を合わせるため、土方の掌が顔を上げさせるように榎本の髪を撫ぜる。上げられた表情は、大鳥には分からない。けれど苦笑した土方の顔から、悔しそうなものだろう事は想像できた。
「そうだな、今日は一緒にいる約束だ」
「君が、言ったよね…」
「あぁ、だから別に、俺はどこにも行かねぇよ?」
「……行くって言っても、行かせないけど…」
言って榎本が、土方の胸へと体を寄せる。突然のことに一瞬間驚いた顔を見せた土方も、細い腕が背に回されたのを感じて細身な体をそっと抱きしめ返した。
なんとも甘ったるい空気が廊下まで漂ってくる。大鳥にとっては非常に面白くもなんともない、寧ろ心の底から何かよからぬモノが出てきそうなその光景に、吐き散らそうとした溜め息はなんとか飲み込むことに成功した。けれど眉間の皺は深さを増していくばかり。もしかしたら、今日一日でくっきりとした跡が残せるんじゃないだろうか。
「仲直り、しよっか」
榎本を抱き込む土方の耳元に、いつもの明るい声が落ちる。その返答に、首筋に口唇を落とした土方を目にして、大鳥は飛び出して行けない憤りを握り締めた拳に表した。ぎりぎりと噛み締めた奥歯が、しんっとした廊下に響くようだ。
「…あ、でもさっきのだけは譲らないからね」
「テメ、まだ言うか?」
和解の提案はしたものの、そこだけは折れるつもりはないらしい榎本が、土方から少し顔を離して言った。
「いま一番、君のこと想ってるのは私だからね」
さすが、と言わんばかりの土方は、けれど先程とは違い穏やかにそれを受けた。
「へいへい。ったく、アンタには敵わねぇよ」
(…………なんやて?)
思わず大きくこぼしそうになった声は口許を覆った掌に押し止めた。
要するに喧嘩の元は、どちらがより相手を想っているかだったのか。
あぁなんて馬鹿馬鹿しい。アホくさ、やってられるか!
そう力強く思って大鳥が呆れを存分に含んだ視線を再び二人へ向けた瞬間、びしっと音が聞こえるほどに体が固まった。
薄暗い室内にも関わらず、うっすらと光を見せる土方の瞳が、大鳥を見つめている。
(あかん!…バレ、て…?…っんな!!)
焦りが浮かんだのは、束の間。思わず逸らそうとした大鳥を嘲笑うように細められた瞳がすっと伏せられた。代わりに上げられた榎本の頭の向こうに土方の顔が重なって見えなくなる。
ちゅっ、と小さな音が届いて漸く、大鳥は事態を無理矢理に飲みこまされた。
「仲直り、足りた?」
「……足りない」
榎本の腕が土方の首に回される。
開いた口が塞がらないとはこのことか。あんぐりと口を閉じることを忘れた大鳥の視線の先で、もう一度土方がニヤッと笑んだのが見えた。
大鳥が追い払われるまで、もう後少し。
見たくなかったと頭を抱え戸口にしゃがみ込んだ大鳥は、盛大に吐いた溜め息を静かな廊下に散らした。